2012年10月16日火曜日
野尻抱介「ふわふわの泉」
浜松西高校化学部部長・浅倉泉の人生の目標は“努力しないで生きること”。文化祭を前に泉は、ただ一人の部員・保科昶とフラーレンを生成する化学実験を行 なっていた。そのとき学校を雷が直撃!実験失敗と落胆する泉の眼前には空気中に浮かぶシャボン玉のような粒子が生まれていた。ダイヤモンドより硬く空気よ り軽いその物質を泉は“ふわふわ”と名づけ、一儲けしようと考えるのだが…伝説の星雲賞受賞作、ついに復刊。
空気より軽くダイヤモンドよりも硬い、もしもそんな物質があったら――というハードSFで、長らく絶版状態だったのが、最近ハヤカワ文庫から復刊したため購入。
元々はライトノベルレーベルであるファミ通文庫から出された作品ということで、物語の構成や物質についての考察などはかなり綿密ではあるものの、全体的にはかなりライトな雰囲気を感じた。
またこの作品は、主人公が文化祭準備の際に謎の物質を偶然生み出してしまったことから始まり、それから三年後、最終的には更に二年後とばんばん時系列が飛んでいく。そこには主人公たちの成長や関係性などにはほとんど焦点が当たっておらず、描かれているのはあくまで「ふわふわ」を使って、何処まで人は行けるのかという点のみ。
そのため科学要素がかなり多く、文系の自分には分からない用語もかなり頻出。SFというジャンル自体はかなり好みなので、読む側としてその辺りの知識的な部分の不足が非常に悔しい。化学的な知識さえあれば、もっと楽しむことができたんだろうと思う。
2012年10月8日月曜日
阿部共実「空が灰色だから」 3巻
各地でひっそりと話題沸騰中、心を揺さぶられるオムニバス「空が灰色だから」。一巻は赤色、二巻は黄色ときて、三巻の表紙は青色。三冊並べてみると信号みたいだけど、中身は三冊とも一貫して黄色信号。読んでいると心が不安になる感じが似てるような、似てないような。
今回は全体的に暗い話が多めな印象を受けた。というか、「異常な人」を主軸にした物語が多くなった結果、こういう方向性になってしまったという感じ。
例えば、「歩く道」の主人公なんかは、学校にまじめに通う生徒をバカにし、他人に対する理由のない優越感をアイデンティティーとしている。彼の台詞に「だいたい学校なんて自分を持ってない抜け殻みたいな輩が答えを求めて通うところだ」なんてのがあるんだけど、作中ではそのアイデンティティーの象徴である壁を上り、その先の風景を目の当たりにすることで、自身のアイデンティティーが空っぽだったことに気づく。つまり、まさに彼自身がまさに「自分を持ってない抜け殻みたいな輩」だったわけなんだけど、そこにはある種の笑えない滑稽さがあって、かなりドキッとしてしまう。
この作品はこういう「異常」と「普通」の距離感を非常に大切にしていて、その間から生じたなんとも形容し難いズレこそが、この面白さのキモなんだと思う。そして、特にこの巻にはそれを感じさせる物語が多いように感じた(というかほとんどなんだけど)。
とまあ、「空が灰色だから」の三巻というよりも、この作品の総評みたいな書き方になってしまったけど、今回の感想はこんな感じで終わり。四巻も楽しみに待ってます。
……にしても、毎回、収録されている最後の話がわかりやすいほど狂気じみてるんだけど、これって意図してやってるんだろうか。うーん、謎だ。
2012年10月6日土曜日
神林長平「言壺」
『私を生んだのは姉だった』
小説家の解良(けら)は、万能著述支援用マシン“ワーカム”から、言語空間を揺るがす文章の支援を拒否される。
友人の古屋は、解良の文章が世界を崩壊させる危険性を指摘するが・・・・・
「綺文」ほか、地上800階の階層社会で太古の“小説”を夢見る家族の物語「没文」、
個人が所有するポットで言葉を育てる世界を描いた「栽培文」など
9篇の連作集にして、神林言語SFの極北。
第16回日本SF大賞受賞作
『私を生んだのは姉だった。』
この一文を発端とした言語と人間の戦いを描いた言語SF……でいいのかな。
題名のとおり「言葉」をテーマにした作品。前に読んだ雪風はすらすらと読めたんだけど、今回は結構難しくて読むのにだいぶ苦労した。流石に解説を書いている円城塔の「Boy’s Surface」ほどではなかったけど(というかあれはもう理解するのを放棄した)、「乱文」辺りは読んだ気になっているのだけで、実際は十分の一も理解できなかったような気がする。
小説家が作中に登場するワーカムという万能ワードプロセッサーにこのおかしな一文を無理矢理認証させたことで、言語空間が崩壊していく――というのがこの作品の冒頭に収録された「綺文」のおおまかなあらすじ。短編集ではあるもののすべての作品はここから始まっており、こういう独創的な発想は流石。というか、1994年というまだそこまでインターネットも発達してなかったような時代にこんな傑作を書けたことには驚きを隠しきれない。
それにしても、最後の「碑文」の我とは誰なんだろう。作者なのか、栽培文の娘なのか、それとも、言葉そのものなのか。
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